自由間接話法
―フランス文学、フランス語学、ドイツ語学の観点から―
日時:2014年5月24日(土)10:00-12:00
会場:お茶の水女子大学 共通講義棟1号館304
(キャンパスまでのアクセスはこちらをご覧下さい。)
申し込み:不要(直接会場にお越し下さい。)
参加費:無料
パネリスト:
赤羽研三(上智大学)「小説における自由間接話法」
阿部宏 (東北大学)「疑似主体現象としての自由間接話法」
三瓶裕文(一橋大学)「心的視点性と自由間接話法の機能について ― ドイツ語の場合」
企画・司会:平塚徹(京都産業大学)
各発表の要旨は以下をご覧下さい。
「小説における自由間接話法」(赤羽研三)
プルーストは、フローベールの語法の新しさに「文法的な美」を見ていて、その代表として自由間接話法を挙げている。そして、その文体は、プルーストによれば、「世界についてのヴィジョンと世界を表象する仕方において革命」をもたらしたとされ、その後の世界文学に大きな影響を与えた。本発表では、フローベールの小説から、典型的な半過去の例に加えて、単純過去における自由間接話法の例を取り上げ、スタンダールやバルザックと違って、語り手の介入をできるだけ避ける彼の非人称的な文体がどのようなものかを見る。その際基本となるのは、バンヴェニストが「話(discours)」という発話モードと区別した「物語(histoire)」という発話モードである。そして、その「物語」モードという考え方を通して、語ること(声)と見ること(視線)との関係、また、語り手と作中人物の二重の声について検討してみたい。
「疑似主体現象としての自由間接話法」(阿部宏)
バンヴェニストは発話行為を「話」と「歴史」に大別し,後者は「話し手が介入することなく,ある時点に生じた事実を提示する」ものとした.確かに,「話」において発話主体たる話し手の主観性に関わる表現が多用されるのとは対照的に,歴史書の記述内容と歴史家の主観性とが直接的接点をもたないのは当然のことであろう.しかし,やはり「歴史」とされた小説においては,時間・空間ダイクシスなどの主観性の表現が頻出し,臨場感を高めるのに貢献する.これらの責任主体が発話主体たる語り手でないのは明らかであるが,責任主体は必ず任意の登場人物の誰かというわけでもないのである.この種の現象に統一的説明を与えるためには,記述内世界に潜在する疑似主体の仮説が有効であろう.自由間接話法もまた,こうした疑似主体現象の現れではなかろうか.また,自由間接話法において文法度が高い時制や人称については語り手,ダイクシスなど語彙的なものについては登場人物が責任主体になるという指摘がある.自由間接話法を臨場感と文法的・文体的拘束の妥協の産物と位置づければ,日本語において自由直接話法的表現が好まれるのは,文法的・文体的拘束が緩いことに原因がある,とも考えられよう.
「心的視点性と自由間接話法の機能について ― ドイツ語の場合」(三瓶裕文)
本報告では、ドイツ語における自由間接話法の特性と機能を素描する。そのための原理的基盤は、「心的視点の移動性」を軸とする認知的原理「近ければ近いほど直接的」である。語り手の心的視点は作中世界の外の語り手の原点と作中人物との間のスカーラ上を動く。語り手の心的視点が原点から作中人物に近づくにつれて、作中人物の視点性が高まり、語り方のありようも「地の文(語り手の視点性)→自由間接話法(二重の視点性)→内的独白(作中人物の視点性)」と推移する(vice versa)。語り手の心的視点は、作中人物との心的距離に応じスカーラ上を連続的に動くので、これらの語り方相互の間にもさまざまな変種が生じる。
<認知的原理>
語り手は心的視点を作中人物に近づけることで、本来外からは窺い知ることのできない作中人物の内心(思考・知覚)をいわば直接知覚・共体験できる。
自由間接話法の主な機能
1) 作中人物の「内心」を共体験的また目立たぬように(=地の文に織り込んで)再現する。
2) 読者は思わず知らず作中世界内に臨場、作中人物の内心を共体験する。映画の「主観カメラ」と同じ機能。自由間接話法と直示表現が共起する場合、読者の臨場感・共体験感はさらに強まる。