7月18日(土)15時 – 18時
慶應義塾大学(三田キャンパス) 西校舎 523 B (翌19日の例会と同じ場所です)
テーマ「多義性・多義語をめぐって」
発表者
小倉博行(早稲田大学講師)「ラテン語の動詞obsecroについて — プラウトゥス,テレンテ
ィウスの用例から — 」
渡邊淳也(筑波大学)「拘束的モダリティの否定の多義性について」
司会 前島和也(慶応大学)
談話会要旨
小倉博行「ラテン語の動詞obsecroについて — プラウトゥス,テレンティウスの用例から — 」
ラテン語の動詞obsecroは「お願いする」「頼む」という意味を持ち,依頼の内容は直接目的語や,ut節(「?するようお願いする」)やne節(「?しないようお願いする」)を従える構文をとる.古代ローマの喜劇作家プラウトゥス(Titus Maccius†Plautus 前254?前184)とテレンティウス(Publius Terentius Afer 前195年または185?前159)の戯曲に用いられている用例では,圧倒的に1人称単数が多く,上記用法の他,命令文や疑問文とも共起することが観察され,命令内容の遂行や回答を促す働きを持っていると考えられる.また,この場合は命令文や疑問文の前後中のどの位置にも現れることから,間投詞的に働いているようにも見える.さらに興味深いのは,同じ疑問文でも反語だったり,話者が感情的になっているなど単純に答えを求めるだけの場合とは異なる種類の疑問文にも現れる点である.加えて感嘆文や平叙文にも出現し,本来の「お願いする」「頼む」といった意味合いは読み取りにくくなる.こうした観察結果を多義の問題とからめて論じてみたい.
渡邊淳也「拘束的モダリティの否定の多義性について」
Tu ne dois pas…、Il ne faut pas… など、devoir, falloir の否定形について考える。先行研究における議論は、「必然性の否定」という字義にしたがうなら「しなくてよい」になるはずなのに、なぜ「してはいけない」になるのか、という点に集中していた。しかし、van Hecke (2007) は、その前提に疑問を呈し、文脈によっては「しなくてよい」の解釈が出てくること、とくに時制が変わると劇的な変化があることを、調査によって示した。本発表では van Hecke (2007) の内容を紹介しながら「してはいけない」、「しなくてよい」の多義性について見てゆくが、どのような要因が解釈決定にあずかるかに関しては van Hecke とはちがった新たな仮説を提出したい。一方、「しなくてよい」をあらわすことに特化しているとみなされる ce n’est pas la peine の類さえ、実は禁止をあらわしている例が存在することにふれ、「しなくてよい」から「してはいけない」への派生がdevoir, falloirにおいてかなり固定化しているほかにも、実は推論過程は遍在していることを述べ、多義性全般へのひとつの見解としたい。